2728  14 養蚕と松屋(梶田製糸)

<『さいお』春日井市立西尾小学校開校100周年記念ハンドブック>

 蚕と書いても読めない人がふえているかもしれません。天の虫と書いて「カイコ」と読み、カイコを飼うことを養蚕業と言います。カイコはカイコガの幼虫のことで、白っぽいイモムシです。クワの葉をエサとし、サナギになるときにマユをつくります。それを煮て絹糸(シルク)のもとになる生糸を取ります。日本では古くから知られ、飼育されてきましたが、品質においては江戸時代には中国産にひけををらないものとなっていました。それが明治も中頃になると、富岡製糸工場をはじめとする殖産興業によって盛んとなり外国に輸出てきる重要な産品どなづてい きました。

 このあたりでも明治になると、養蚕業がかなり盛んだったようです。『春日井市史』によると、明治25(1892)には、東春日井郡では、すでにクワの栽培面積が米麦をのぞく他の作物よりも多くなっていたことがわかります。そして、その後も栽培面積は増加の一途をたどっており、日露戦争後の中央本線の全通によって益々発展したようです。しかし、生糸は輸出が盛んに行われたために、国際価格の影響を受けやすいものでした。そのため、暴落が何度かおき、昭和の初めころを最盛期として、あ とは次第におとらえていきました。

 明知町の鵜飼三千子さんと鵜飼みねこさんに、子どものころのことを聞いてみました。

 <今は、この辺りも建て直した家が多いのてすが、そのころは、どの家でも昔ながらの家で、カイコは.春から秋にかけて、1年に4回飼いました。たたみの部屋はもちろんのこと、忙しいときには、板の間もカイコに使い、家族は土間に寝ました。カイコのフンが自然に下に落ちるようにしてある、わらざという竹でつくった大きなざるのようなものを、木のワクに合わせて何段も重ねて使いました。そして、カイコが食べるクワの葉を毎日毎日畑に行って取ってきました。今、明知や西尾の子が通学路に使っている郷道が村の中心の道て、この道のまわりにクワ畑がとても多かったのてす。>

 当時、この辺りに働きに行くところが限たれていたので、農家にとって貴重な現金収入だったようです。そのため、なかには、1年に5回も飼ったり、母屋の他に蚕室というはなれをつくってカイコを飼う人もいたようてす。『さかした』によると、長谷川鍬次郎という人(倉知製作所の近く)は、勝川や鳥居松の方から女の人を5〜6人やとい、まわりの人たちから「おかいこ鍬さ」と呼ばれるまでになりました。

 マユは、製糸工場に運ばれ、生糸にされました。内津では、 梶田賢治という人が、松屋(梶田製糸)という比較的大きな製糸工場をつくりました。従業員が200名程度(明治39年現在)と言いますから、坂下近辺では一番大きな工場でした。場所は西尾から内津に入るところのカーブの右側、今の光徳という会社の少し手前の内津工業の事務所の辺にあったということてす。

 従業員は女の人が多く、いわゆる女工と呼ばれました。寄宿舎制で、朝早くから夜遅くまで1日15時問も働きました。その割に賃金は低く、おまけに能率給で、休日は毎月1日と15日の2日だけでした。このように書くと、女工の悲惨な面が強調されることが多いのですが、実際には農村で働いているよりは収入かよく、町も人口が増えて活気づいたと言います。

 しかし、残念ながら、松屋は破産してしまい、クワ畑もほとんど姿を消してしまいました。